第一種電気工事士/登録電気事業者

與儀圭純

[ yogi keijyun ]

「宜野湾で生まれ、浦添で育って」

僕は沖縄市で生まれ、浦添に8歳ぐらいまでいました。
兄弟は下に弟が一人います。
親父が電気屋の社長をしていたこともあって忙しく家にはほとんどいませんでしたね。
おふくろはあんまり家のことをやらない人で、あるとき若い男を作って出ていってしまいました。

親父の兄弟とも一緒に住んでいたのですが、自分たちのご飯が作られることがなく、
浦添に住んでいたときはほとんど放置されているような感じでした。

そんな中でもおばあが毎週土日になると浦添までやってきて、読谷までつれていってくれていました。
なので浦添にいたころは週末が待ち遠しくてしかたがありませんでした。

「読谷で過ごした学生時代」

母方のおばあがそんな状態が続いていることを心配して自分たちを呼んでくれ、おばあのいる読谷に引っ越してきました。
読谷での生活はそれまでの生活が嘘だったかのように快適でした。
住んでいた場所が漁港に近かったのでよく海に遊びに出ていたのですが、漁港の船に飛び乗ったりして、それが見つかってむちゃくちゃ怒られたり。笑 

本当にとても楽しかった思い出しかないですね。
また近所の方ともとても距離が近くて兄弟2人でよくかわいがってもらっていました。
そんな日々だったので読谷に引っ越してきてからの学生時代はあっという間に過ぎ去っていきました。

「ありがとう、ありがとう。本当にありがとう。」

高校を卒業したあとは内地に就職しました。
就職して2年ほどたったときに阪神大震災に被災して、僕も何かしないといけないという使命感にかられました。

そのときに電気工事や住宅を修理する仕事を覚えたのですが、たまたま修繕に入った家のおばあがひどく感動してくれて。
「ありがとう、本当にありがとう。」
って言葉をつまらせながら温かい手で僕の手をつつんで泣いてくれたんです。
その姿にひどく感動してしまって。
これまで仕事は食べていくためだけのものだって思っていたのですが、そんなことないんだなって。
人を感動させることができるんだなって。この仕事をやっていこうと思いました。

「沖縄に戻ってきて」

それから沖縄に戻って電気工事の会社に就職して修行を重ねました。
大変ではありましたが、いろいろなことをさせてくれる会社だったのでそこでたくさんの技術を学びました。
もともと独立しようと考えていたので、就職して10年ほど年月が経った後の平成20年の6月に沖圭エンジニアとして独立しました。
脚立一つとオンボロのアルト1台しかありませんでした。

最初は仕事が全然なかったのでそれをみかねた友人が自動車工場のスイッチひとつを変える仕事をふってくれたりもしました。
後から聞いたらこれは変えなくてもよかったそうなのですが。多分気をつかってくれたんだと思います。(笑)
でもそうしてコツコツとやっていくうちに徐々に大きな仕事をもらえるようになりました。

「おばあとぼくと」

おばあは昨年亡くなってしまったのですが、自分はおばあに本当に感謝しています。
おばあがいなければ絶対に生きていけていなかったでしょうし、自分ははぐれものになっていたと思います。

自分のことはいつも後回しにして僕たちやまわりのために常に動いていたおばあに対して少しでも恩返しがしたい。
実母のように愛情込めて接してくれたおばあが大好きでした。
だから大人になってからも、時間を見つけてはおばあとモスバーガーを食べに行ったりカフェに一緒に行ったりもしていました。

「地域の人たちとともに生きる」

地獄のような小学校低学年のときから移住して本当に楽しい時期をすごさせてくれた読谷での日々。

僕はそんな地域の人たちに少しでも恩返しするために、 電気工事屋として日々汗を流しています。

僕を育ててくれた地域の人に寄り添う仕事を行うために。

僕を救ってくれたおばあに感謝を伝え続けるために。

これからも電気工事を通して地域の人たちに喜んでいただけるように頑張っていこうと思います。

最後におばあ、こんなおれをずっと育ててくれて、本当にありがとう。

與儀圭純

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